2011年8月3日水曜日

菅首相が辞めないわけ、もしかして、 「やめたら離婚する」(伸子夫人)と言ってるかも? 「科学風」の装いの言説(マスメディア登場の”専門家”)に騙されるな! 流れ星を見たい方へ

木村建一@hosinoojisan



菅首相が辞めないわけ、もしかして、

「やめたら離婚する」(伸子夫人)と言ってるかも?

「科学風」の装いの言説(マスメディア登場の”専門家”)に騙されるな!



 菅首相伸子夫人の言動が、社会をにぎわしている。

 海江田経産相の国会での「泣き落とし戦術?」に対して、「泣いたら離婚する」と、マスメディアに言ったことである。

 又、首相執務室に伸子夫人が常在していることも、問題化する向きもいるらしい。(倫理に反する)

 「四面楚歌」状況の菅首相にとっては、伸子夫人が唯一の「同志」として、存在しているのであろう。

 これらを検討すれば、菅首相が、首相の椅子に居座っているのは「やめたら離婚する」と、伸子夫人に「脅迫?」されているのかもと思うのは私だけではあるまい。

 東西を問わず、民主的に選出されていない「王妃」「首相夫人」「大統領夫人」等が、政治に口出しすれば、とんでもないことになっているのが歴史の教訓だが、日本の管首相もそうなっているのでは・・・・。

 被災地の住民をはじめ、今多くの日本国民が、菅首相の居座りで、政治空白による生活窮乏で「泣いて」いる。

 伸子夫人殿、あなたは、「国民が泣いている」ので、日本国民を捨てて、日本国民とたもとを分かつのか?

 少しは、利口な人と思っていたが、「お里が知れて」しまいましたね。あなたも、所詮は、お金持ちのお嬢さんだったのですね。

もとい。

 日経ビジネス誌に、伊東乾氏が、貴重なレポートを掲載している。

 氏のレポートによって、原子力関連の知識を学んだが、この寄稿も終盤を迎えつつあるようだが、今回は、民主主義を考えるうえで、又、学者という立ち位置の人がどうあるべきかを提起しており、示唆に富んでいるので、記録として記述しておきたい。

 先般の東大の児玉Pfの、参議院での参考人答弁とも併せて考えるとき、このような、「真理の探究」を目指す研究者・学者も日本には存在するという事が解っただけでも、今回の福島原発事故の肯定面と言えよう

 それにしても、砂糖に群がる蟻のように、「金に群がる」輩は、もはや学者とは言えないだろう。

 このような輩は、歴史が断罪することとなろう。

 否、現実に、「刑事事件」の共同正犯として、社会的制裁を行うべきではなかろうか?



「滅私奉公」から「活私開公」へ

正しく怖がる放射能【16】
2011年8月2日(火) 日経ビジネス
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110728/221737/?rank_n
・・・・・・・・・略・・・・・

「科学」が「倫理」に取って代わりかねない
 日本社会は明示できる共通道徳を持ちません。例えばキリスト教道徳が「聖書」という形で示すことができるモラルの水準を持っていない。今回のノルウェーの事件でブレイビク容疑者が「キリスト教原理主義」をいくら主張しても、新約聖書にも旧約聖書にも、はっきりと「汝殺すなかれ」と書いてあります。むろん歴史を振り返れば、十字軍を筆頭に異教徒撲滅を正当化する詭弁は多々ありますが、今日の国際社会はそんなものを容認するほど甘くない。
 ここで翻って、あいまいな日本の私たちの現状を考えると、倫理的な問題に聖書に従うようなシンプルな白黒はつけにくい。例えばこうした事柄も、公害などの公共政策を考える際、先進国の中で欧米と日本を分かつ1つのラインになっていると思います。
 一見すると科学万能のように見えながら、夏場に心霊番組が視聴率を取ったり、墓石などをめぐる霊感商法が儲かってしまう程度には、いまだ原始信仰を社会が温存している今日の日本。僕個人は「オウム真理教」事件に忸怩たる思いがありますので、日本人が浅く科学に流れる傾向に、どうしても警戒の念を持ってしまいます。
 一見「科学」を標榜する内容が「正しい(らしい)」として喧伝流布される傾向。これをとみに痛感したのは7月8日に東大法文一号館で行った東京大学緊急討論会で、教育学部の影浦峡さんが提示された、マスコミに載せられた多くの「科学風」な議論を目にした時でした…。
 …というのも、実のところ、そういう「科学風」の装いの情報の大半は、全く「科学的」ではないのです。あれこれの数字やミリシーベルトその他カタカナの単位も登場するのですが、議論は全く科学の体をなしていない情報が取りざたされるケースが、圧倒的に多いのです。
 7月8日の緊急討論会でも指摘した例を挙げるなら、物理的な放射線被曝量を示す「グレイ」単位の数値であれば、私たちは「科学的」な議論を組み立てることが可能です。しかし、さまざまな臨床データを下に作られた便利のための平均値「シーベルト」が出てきた瞬間、私たちは「安全のためのそこそこの目安」以上の情報を、そこから得ることはできなくなります。シーベルト単位の数値は「これなら安全<だろう>」と読むべきものではなく「これ以上だと危険<かもしれない>」と読むべきリスク評価の値と見るべきで、むやみに「安全」を言うべき参考値ではありません
「科学風」の装いの言説に社会が翻弄
 ここで各論には踏み込みませんが、疫学の数値の使い方として根本的におかしい話が氾濫し、そうした数字のあれこれに生兵法で踏み込むことによって、物事の本質が見えなくなってしまうケースが目に付きました。
 例えば低線量被曝を巡る「どこまで安全か」云々の議論以前に、3月11日以前であれば放射線管理区域に指定されたであろう、現行法に照らして明らかにおかしい部分がすっ飛ばされたりする。むろん非常時の判断です。しかし、だからこそ原則を揺るがせにするべきでないのではないか。数字の詳細に目をくらまされることは、科学的でも何でもありません。原則を見通す判断が「正しく怖がる」1の1だと考えます。
 20世紀後半から21世紀の日本は「科学風」の言説が「宗教」に取って代わる社会になっています。生命に関するあれこれは19世紀までなら坊さんの持ち分でした。今は医者や科学者が生命のシステムを説明します。宗教は社会倫理の根本を形作りますから、下手をすると日本社会の倫理事態が「科学風」の装いでおかしなことにされる危険性がある。これはオウム真理教事件で既に懲りているはずの現実ですが、震災後の情報混乱を見る限り「科学風」の装いの言説に社会が翻弄される実情に変わりはありません。
 えせ「科学風」の風聞の真贋を見分け、しっかり判断するための、大学教養~専門学部初期程度の基礎科学の「活私開公」をしよう…。これが、私がこのシリーズで考えた最大のポイントです「専門家」と称する人が断片的に述べる言葉の独り歩きは、かえって誤解によって危険を増大すらしかねないケースも見かけました。
 大学教養や専門初歩程度までの物理であれば、自分も教えた経験がありますので、間違いのない範囲での議論、あるいは推論の立て方を多くの人と共有できます。まずできることから。というのが、このシリーズの動機になったわけですが、もう1つ、この「共有」という部分を、きちんとお伝えしたいと思うわけです。
社会の安全に求められる「公共性」
 これも今まで幾度も繰り返してきましたが、現在も変化しながら進行している福島第一原発の状況に対して、「コレさえあれば全部OK」と安心させてくれる特効薬の対策など、絶対に存在しません
 常に変化する状況の中で、狭義の自然科学に照らして正確な判断を下すのはもちろんですが、ことは社会的な問題です。もう1つ「公共性」が決定的に重要です。
 「ワタシたち」自身の身を守りながら、「ワタシたち」以外の人の安全や復興に十分配慮し、立場の違うさまざまな人々、多様性ある社会の共栄共存を図ること、その情報、ないし「判断力の共有」、こうした「公共性」こそ、今、日本人全体に最も求められる姿勢と思います。これがもう1つ、3月11日の災害勃発直後から、本シリーズも含め一貫して指摘している本質にほかなりません。
 「全体のために一部を犠牲にする」という発想で、私たちは震災復興に取り組むべきか。こう問えば、大半の人が「NO」と言うでしょう。
 ところが、少し話がこんがらかってくると、物事の本質が見えにくくなります。
 具体的な復興事業の進行の中では、いろいろな立場の人に利害が分かれるでしょう。それをいかに「民主主義的に」解決し「全体主義的」に臭いものにフタをすることなく、よりよい方向に展開してゆけるか。 
 とりわけ行政に問われる復興の舵取りは、まさにここにポイントがあります。放射性物質による環境や汚染飲食物の汚染、その拡大や対策は、典型的にここを問わねばなりません。
 「ワタシたち」が被害を直接被らないようにする、これは言うまでもありません。まずは自分で自分たちの身を守る。では「ワタシたち」でない人がどういう影響を被るのか。
 もし煎じ詰めた時「そんなことは知ったことではない」という施策があれば「利己主義」的なポリシーと言わねばならないでしょう。
相互に尊重しあう「個人主義」を前提
 あくまで一般論ですが「ワタシたち」以外の人にも、「ワタシたち」が自分の幸福、安全や安心を追求するのと同様に配慮すること。これは前回も触れた「個人主義」の考え方ですが、これを社会に拡大するなら、違う考えの人々、少数意見にも十分に配慮する「民主主義的な施策」をこそ、推進しなければなりません。
 つまり「民主主義」とは本質的に、相互に尊重しあう「個人主義」を前提にする社会体制としてデザインされるものです。これと比較する時、「全体主義」は利己主義を根本原理とすること(日ごろナチス・ドイツなどの事例を出すと「大げさ」というリアクションがありますが、今ノルウェーで引き起こされた事件の前では、引き合いに出しても妥当とお分かりいただけると思います)。私たちは声を大にして言わねばなりません。
 ノルウェーのケースで言えば、ブレイヴィク容疑者が行った爆弾テロと大量殺人は、どんな屁理屈によっても糊塗され得ない「利己主義的」で浅はかな振る舞いと断じなければならない。そう思います。
 自称「キリスト教原理主義」のテロ犯罪とは、具体面ではほとんど通じるところのない福島第一原発事故ですが、こと「公共性」という大原則に照らして考えれば、明確に通底する原理があります。民主主義社会での公共性への配慮。原則を見失うべきではないと思うのです。
それというのも、英国での報道によれば、ブレイヴィク容疑者は犯行に先立つ「マニフェストで、イギリス国内極右組織に「英国内の原発を攻撃して社会経済を麻痺させる」ことを強く奨励していたというのです。
 両者は決してバラバラに考えるべきことではないように思われてなりません。
 (つづく)

 空が白み、お日様も照り始め、セミが鳴き始めた。

☆☆☆☆☆☆
 流れ星を見たい方へ
 ペルセウス流星群の観望時期が近づいています。
 8月13日午前1時をピークに、前後5日間程度観望可能です。(8/8~8/18という意)
 今年は、月明かりのため、大きなものしか観望できませんが、近くの山等暗い所に行って、御座でも敷いて、寝転がっていれば見れますので、双眼鏡等器具は不要です。流星痕が見られれば、感激する筈です。私の娘も、これを見て、星好きになり、孫に望遠鏡をとせがまれています。
 遠出等出来ない方は、庭に御座を引いて、子供さんとコミュニケーションを深めたらどうでしょう。
・・・・・本日は、これまで・・・・

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