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阪神大震災(16年前)に関する思い出
16年前の1月17日の午前6時00分、私は、北九州市戸畑区の八幡製鉄所の戸畑西門の門前にいた。
自宅を出る際、関西地区で、大地震の報道がなされ、次女がいた京都の状況しか報道されていなかった。
これは、兵庫地区が、壊滅状況にあり、情報が、滞っていたためである。
娘に電話をしても、通じず、心配しながら、製鉄所の門前に立ち、イヤホーンで、NHKニュースを聞きながら、街頭演説を行っていた。
当時は、北九州市長選が始まったばかりで、当時、アンチ末吉市長候補とともに、戸畑西門に立っていた。
演説しながら、情報を製鉄従業員に伝えていた記憶を鮮明に思い出す。
妻、純子が、北九州市内の病院で、検査しても病名すらはっきりしないため、、京都大学病院で、検査するため、京都行を考えていただけに、新幹線の破壊的な被害の報に接して、私にとっては、ショックだった。
航空機等で、検討したが、彼女の状況には適しないため、あきらめた記憶がある。
当時、私は、月・水・木・金、最低でも、週3回は、製鉄所の門前で、教宣活動を展開していた。
公安調査庁に関係していたある出版社が、その本の中で、私の行動を注目していたことも承知していた。
製鉄所門前と言えば、現北九州市長の北橋健治君との出会いが、思い起こされる。
当時、私が、ある政党の議員事務所の所員としての活動もしていたが、当時の北橋君は、民社党(民主党ではない)の反共の闘志として活躍していた。
ある日、確か、戸畑中原門と記憶しているが、私と北橋君が、鉢合わせ、激しい論戦を展開したことを記憶している。
北橋君は、東大出の現役衆議院議員、どうも、私が、演説原稿を暗記して演説していると誤認して、私に論戦を挑んできたが、私が、3倍返しをして、論破したため、そばにいた県会議員や市会議員が、北橋君を引きずりおろしてしまった。
北橋君としては、当然悔しかったと思う。
しかし、それ以降、北橋君は、私との関係は、良好になった。(職場では、同じイニシャルのK.Kとか、建ちゃんと揶揄されていた。)
震災後の門前で、北橋君にアドバイスしたことが、鮮明に思い起こされる。
現在では、それ相応の実績を残した市長という事は出来るであろう。
2月6日は、投票日、私との思想的関係は反対だが、彼が、市長に再選されることとなろう、
今後とも、市民感覚に依拠することを提言しておきたい。
日本の経済的・軍事的自立を目指せ!
さて、国政の問題であるが、菅政権の「4人組」、中国の「文化革命」当時の誤った「紅衛兵」運動を想起せざるを得ない。
中国の失われた10年ともいえるものだが、中国は、それを克服するために、倍の年数が消費されてしまったことは教訓とすべきであろう。
「菅・仙石・前原・岡田」の4人組、日本をアメリカに売り渡した「4人組」として、「紅衛兵運動」よろしく、日本の歴史に悪名を残すこととなろう。
日本の知識人層に訴えたい。
私は、文章力には、劣るが、観点だけは、かなり正確だと認識している。
アメリカとの関係は、良好に維持すべきだが、「昨日述べたように、日本を、従僕として扱う、アメリカからの自立」は、「怒りの葡萄」を想起するまでもないであろう。
アメリカが、真の民主的国家になってもらうためにも、「日本の経済的、軍事的自立」を確立すべきであろう。
それにしても、朝日新聞の論調の右傾化は、容認できないと言っておこう。
墓場に入った、全共闘出身の田原総一郎の害悪は、許されない。
・・・本日は、これまで・・・
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